「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」から考えるエンディングの影響力

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の小説を読み、映画を見ました。

小説を映画化するとなると、どうしてもバッサリ切らなくてはならないのは宿命ですねぇ。
個人的に、待子のエピソードがバッサリ切られていたのが残念でした。後は、澄加の手紙の内容が本当だった!みたいな驚きもどうしても味わえなかったり。だけど、一方で清深のちょっとズレた部分とか澄加の狂気さというものがオリジナルで付け足されていた部分。そして、何よりクライマックスシーンは素晴らしい実写化がなされていて、とても美しかった。

しかし、そんなこの映画も、クライマックス後のエンディングで原作と映画の印象が180度変わってしまいました。以下はネタバレを含みつつ書いていこうと思います。

「続きを読む」の使用方法がやっと理解できたので早速使用。


澄加は清深を果物ナイフで刺します。しかし、それはダミーナイフでした。その後、清深は待子に「お姉ちゃんのこと、よろしくね」と言い残し、家を出て東京へ向かいます。ここまでは一緒。

その後、原作では、手紙をちぎり続ける澄加は待子に「何で、生きてるの」と問い「…あ、ない!」と待子は答える。そして、待子は邪気を放つ人形と金槌・釘を差し出します。そして、澄加はそれを受け取り、自分以外の全てを呪いながら釘を打つ…という終わり方。

一方、映画では清深の乗るバスが止まった所に走ってきた澄加が乗ってきます。そして、追いかけっこが始まり、澄加が清深を捕まえ押し倒す。清深「馬鹿女!」と叫ぶ。それに対し、澄加は「私を漫画化するなら最後まで見なさいよ!ここからが面白いんだから!」と叫ぶ。その後、2人はバスに戻り、清深がバスで寝ている澄加の絵を描いている…という終わり方。

この終わり方。この映画の終わり方で、この作品のイメージが「結局、姉妹が仲良くなっておしまい」というチープになってしまった感があるのです。澄加が自分の「女優に向いていない」という現実を受け入れて納得してしまったという終わり方になってしまっているような気がしました。

澄加が狂気が薄らいで終わってしまった。これが残念なんです。

それとも、もしかして2人で東京に行くor田舎に残ってこの生活が続く…みたいな狂気を描こうとしていたのか?…いやいや違う。絶対に違う。それなら、清深が書いていた澄加の絵はホラータッチになっていたはずだ。清深が書いていたのは、単なる美しい澄加だった。

そうだ。せめて、清深が書いていた絵がホラータッチだったら。僕は納得していた。全く無かったのだ。原作にあった「誰も何も4年前から変わってなかった」という「ぜつぼう」がこのシーンのおかけで無くなってしまった。

今まで積み上げたテンションがぺ〜ンってなった。

当たり前のことですが、エンディングって重要。それを見終わって、絶対に振り返る。ラストシーンからその他のシーンを思い出して、そのプロセスを追う。そして、その作品に対しての印象を持つ。もし、この映画を見終わった後の観客の中に「家族愛」を感じ取ってしまった人がいたら…いや、いるでしょう。もしかして、制作側もそのように改悪していたのか…そういえば、小説の中になった一連の呪い描写が全て消されていた…そしたら、残念だ。


この作品の根幹にあるのは「救われない・報われない・変われない・変えられない・変わらない」などのネガティブ要素を自覚することの救い」という呪いだ。

それが、このエンディングのせいで「救われる・報われる・変われる・変えられる・変わる」というポジティブ要素の救いになってしまった。


つまり、僕の結論では、原作の「腑抜け〜」と映画の「腑抜け〜」は全くの別作品なのです。


う〜ん、サトエリの演技力なのか脚本なのか、澄加が「狂気」というより「意地悪く」見えていたので、こういうエンディングに急遽書き換えたのだろうか?それとも、海外の映画賞意識??

ともかく、この結末のせいで85点が65点くらいまで落ちたかな…。いや、明和電気さんが出ていたということで+5点で70点で。永作さんがこの作品で賞を総なめしたのも分かる。あの美貌で処女に見えたもんなぁ。冒頭でぐるぐる回ってたし(笑)