追記「新海誠作品について思うこと」

アニメーション映画にとっての風景は、単なる背景ではない。人物・建物と一体となって物語を表象する媒体だ。
細田守監督(アニメ版時かけ、そしてサマーウォーズの監督)の(正確ではないが)「アニメの中のものは、人物・建物・風景など全ての事が必然なんです」という言葉に集約されている。
そして新海誠の作品においては、風景は登場人物達の気持ちを如実に展開する「スクリーン」として機能している。それはあまりに風景と人物の親和性が高すぎるとも言える。理想化され過ぎているかもしれない。それは全てを意のままに表現出来るアニメーションだから可能なことである。
しかし、そのことによって、観客はその叙情間に感情移入できるのだと思う。
新海氏の作品に共通するテーマ。それは「中学時代の恋を引きずる男子」である。
主人公はすべて中学時代の初恋相手を想ったまま、高校生になり、あるいは社会人になる。そして、その時間が引き裂く距離を描いている作品なのである。
このモチーフは、かなり人を選ぶ。簡単に言うと、これは「青臭さ」所ではない。強烈な「童貞臭」漂う作品群なのである。それ故に、感情移入出来ない人も多いのかもしれない。そんなナレーションベースの多さなどから、評価が分かれるのかもしれない。
しかし、新海作品はその青臭さをずば抜けた背景により素直に見させてしまう。僕らは記憶をどうしても美化して残してしまう。だから、その僕らの美化を含んだ景色・憧れの景色をこれでもかとリアルに描くことで、観る人をリアルな嘘の中に引き込む(疑似体験させる)力を持っている。映像表現力では敵う人はいないだろう。

僕は新海誠作品が好きだ。どんなに青臭い・テーマに厚みが無いと言われ様と。「美しい絵」「ナレーションベースの多さ」「美しい音楽」により異様に美化され過ぎている閉鎖的なこの空間が好きだ。