今更だが映画「アフタースクール」の感想を書く

大泉洋堺雅人・佐々木蔵ノ助が出ていたあの映画です。ようやく見ました。

てっきり「青春取り戻す系」の映画だと思ったら、僕の好きなコンゲーム作品でした。後半の展開力は見事であって、「キサラギ」や「12人の優しい日本人」「アヒルと鴨のコインロッカー」のような作品です。小説だと、乾くるみ「イニシエーションラブ」の読み終わりの衝撃度に似ている。

コメンタリーで内田監督が言っていたのだが、「よくわからないと、観客は理解しようとする」ということはその通りだと思った。視覚に映る表面上の情報を、観客が『勝手に』理解しようとし、もっとも簡単な思考回路で人物設定とそのキャラクターを『勝手に』構築していく。そして、クライマックスへと向かう「あるシーン」で、ことごとく思い込みであることに気付かされる。そして、そのシーンで観客は間違いなく笑ってしまう。それは、「騙された〜」という爽快感。しかし、実はそのシーンで別の『勝手な』思い込みをしてしまったことに気付かない…。

しかも、この映画は「実はこの時にこのようなことがありました」と回想でトリックをバラしていくのではなく、「出来るだけ時間を戻さず、進めて行きながらトリックをバラす」という従来のコンゲームとは違う形の作品でした。だから「アヒルと鴨〜」を「キサラギ」形式でまとめたというか。両方の面を持っている映画でした。ただ、だからといって「アヒルと鴨〜」や「キサラギ」より良かったというのは別の話ですが。

この仕掛けは映像でしか表現が出来ない仕掛けだった。キサラギは「観客も登場人物と共に勘違いしていく」展開なのに対し、「アフタースクール」では「観客だけが『勝手に』勘違いする」映画です。予告を見ただけで、『勝手に』勘違いをし始めているのです。

基本的に、「キサラギ」などもそうだが、日本ではこういう「仕掛けだけの映画」ってあんまり映画ファンから好まれていない気がする。例えば、宇多丸師匠とか(笑)。でも、コンゲームに限っては、少々強引な展開とか都合が良すぎる展開とかって、多少はしょうがないんじゃないかなぁ?って思うんですよね。結局、無理矢理ミスリードを狙っていくわけだから、しかも2時間という制限時間で伏線と回収を両方行わなければならないことを考えると、どこかで強引にまとめるしかないでしょう。

要するに、こういう映画って「キル・ビル」みたいな映画と同じように捉えたらいいんですよね。「メッセージなんて特にない映画」なんですよ。単純な娯楽として楽しめばいいと思う。だけど、日本人って映画に「意義」を求める傾向が強いと思うんです。「この映画にはこういうメッセージを込めて作っています」至上主義が蔓延している。

この映画って「映画でやる必要あるの?」って言われれば「無い」。「テレビ以上の制作費をかけられた」ってだけでしょう。でも、それでいいと思うんですよ。「大泉洋が、水曜どうでしょうの大泉だったので、それで演技されても」と言われれば、それまでなんですよ。でも、「最後のどんでん返しのための」映画があってもいい。「確認のためにもう1度見たいな」って思うだけの映画でいい。娯楽だけの手段として映画があってもいい!と僕は思います。

冒頭の堺雅人常盤貴子のシーンが1回目と2回目ではまったく別の印象になる。とりあえず、この映画は1回目に後半を楽しみ、2回目に前半を楽しむ繰り返し見たくなる作品だと思う。「キサラギ」は1回目が1番面白い、「アフタースクール」は2回目が1番面白い。「アヒルと鴨のコインロッカー」は何度見ても面白い(笑)

個人的に1番好きだった伏線は、「ホットケーキ」です。たぶん、この伏線が好きな人が1番多いと思う。そして、堺雅人はよい俳優だなぁ。好きになった。もうDVD化しているのですがネタバレは控えめに書きました。ヒントを出すとしたら、常盤貴子田畑智子のキャスティングは「だからか〜」。